上野東照宮:徳川家康をお祀りする御宮
上野東照宮は1626年(寛永4)、藤堂高虎によって建築されました。
三代将軍家光が慶安4年(1651年)金色殿として、改築、現在に至ります。
徳川家康、吉宗、慶喜を祀っています。国指定重要文化財です。
正保3年(1646年)朝廷は家康に「東照宮」の宮号を与え、それ以後、家康を祀る御宮を「東照宮」とよびます。
(宮号(きゅうごう)・・・社号の一つ。社号に大神宮,神宮,宮,神社,社などの別があり,そのうち大神宮から宮までを宮号という。神社よりも神格の点では上位とされている。)
昔は唐門より内側の敷地には身分の高い人しか入れなかったそうです。
社殿にはさらに身分の高い人しか入れず、社殿の奥は将軍しか入れなかったそうです。
江戸時代の庶民は中はみれなかったんですねぇ。
それを、われわれは観ることができます。(拝観料が要りますが^^)
日光東照宮は有名ですが、上野東照宮は、まったく知られていません。(私の周りでは)
「なにそれ?」
「うそ、上野公園に、そんなのあんの?知らんかった」
と、高確率で、こういうリアクションがかえってきます^^
ですので、ぜひ、案内してあげましょう。
(うんちくを話すと、人々は感心してくれます。)
ちなみに、家康を祀る東照宮は浅草寺の境内にもあったのですが、火事でなくなり、藤堂高虎が自分の敷地内に許可を得て建てた、上野東照宮が大名諸侯の参詣の場所となりました^^。
上野東照宮 大石鳥居
寛永10年(1633)、上州厩橋城主、酒井忠世が奉納しました。
酒井忠世は当時の江戸幕府の重鎮であった人物です。
鳥居の高さは5,15メートル。
「天和年間(1681〜84)、一時、地中に埋められていたのを、50年後の享保十九年(1734)十二月十七日、忠世七世の孫、酒井忠知が掘り起こして、元の位置に立て直した」と鳥居に追記されています。
東京都内とは思えない、自然の木々のなか、威厳に満ちて、佇んでおります。
400年前の江戸時代の人たちと、同じような風景を見ていると思うと、ちょっと、感動ですね。
春のお花見の季節になりますと、きれいなピンクの桜の木々のなか、参道脇には、ずらずらずらーっと、飲食の屋台がたちならびます^^
上野東照宮 石燈籠
日本全国の諸大名から奉納された、石灯籠です。
195基、ズラズラっと、並んでおります。
巨大な石のオブジェが何百年と佇んでいます。
整然と一列に並んだ石燈籠群は、物を言わぬ迫力があります。
戦争や震災の中、よくぞ、今日まで姿をとどめくれたと、心から思います^^。
お花見のきせつになると、この石燈籠のまわりには飲食店の屋台が建ち並び、なんとも賑々しくなります^^。
上野東照宮・銅燈籠
上野東照宮への参道両側にある50基もある青銅の燈籠(とうろう)です。
燈籠とうろう)とは、神事等の催会のときに灯す、 浄火のオブジェです。
(浄火とはご神前に灯す神聖な火のことです。)
江戸時代、全国の諸大名から奉納されました。 国重要文化財です。
300年も前のオブジェが現在、間近で見学、触ることもできる、貴重な聖地です。
なんか、「俺をみろ!!」、と訴えているかのような存在感ですね^^
上野東照宮 唐門
唐門は上野東照宮社殿の正面入口にあります。屋根は唐破風
上野東照宮の正門。慶安4年(1651年)建築。 国指定重要文化財。
それにしても、見事なシンメトリーですね。
入り口の柱には左甚五郎による金箔の昇り竜、降り竜の彫り物があります。
左甚五郎は日光東照宮のねむり猫の製作者としても、有名な彫り師です。
名人といわれるだけあって、彫られたふたつの龍は、目を見張るものがあります。
300年も前の江戸時代の人々と、まるで同じ風景をみていると思うと、感慨深くなります^^。
お化け燈籠(とうろう)
寛永8年(1631年)、佐久間大膳勝之が京都の白河から奉納しました。
高さ6.06メートル、笠石の周囲 3.63メートルの巨大な燈籠です^^。
佐久間大膳勝之(1568〜1634)は織田信長の武将、佐久間盛次の四男に生まれ、母は柴田勝家の姉という、もろに戦国武将の人物です。
佐久間大膳勝之は関が原、大阪夏、冬の陣で徳川側につき、1万8千石を与えられました。
佐久間大膳勝之は上野東照宮のほかにも、京都南禅寺、名古屋熱海神宮にも巨大な石燈籠を奉納し、これらは日本の三大燈籠といわれています。
ちょっと離れたところに立っています。
よく、京都から運び込んだものだと、感心しますね^^。
上野東照宮の展示物(拝観料要)
社殿内は撮影禁止ですので、テキストのみで、展示品を紹介します。
八代将軍吉宗公(1684〜1751)真筆「恵比寿」。
釣竿と鯛を持った恵比寿の画の掛け軸
五代将軍綱吉公(1684〜1751)真筆「鶏」
鶏の画を描いた掛け軸。
家康公所用、紫縮緬陣羽織
家康の着用の服。重要文化財。
家康公着用、鎧、刀
大高城に兵糧を運びいれた時、着用していた物。
日本地図大鏡
伊勢の松浦武四郎が内地、北海道、樺太などの地図を鋳出した大鏡を創り、明治8年(1875)奉納。
十五代将軍慶喜公真筆、書
「光風霽月」とかかれた書画。
*光風霽月(こうふうせいげつ)
さわやかな風とさえわたった月。性質がさっぱりとしていて、わだかまりがないこと。
家康公御遺訓の掛け軸
「人の一生は重荷を負いて、遠き道を行くが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば、不足なし
こころに望おこらば
困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知て、まくる事をしらざれば
害、其身にいたる
おのれを責て、人をせむるな
及ばざるは、過たるよりまされり」
とかかれた書。
歴史的人物の書画や着ていた服がナマで見ることができます^^。
戦争や、震災からまぬがれ、よくぞ無事に姿をとどめたと思います。
東照宮こと、徳川家康公の御加護でしょうか^^?
藤堂高虎とは
(藤堂高虎肖像画-GENNKIMAN-)
最初の主君は浅井長政で、織田信長との戦いである、姉川の戦いで、武功をたてます。
次に、信長の甥である、織田信澄に仕えますが、あまり気が合わなかったらしく、その次に、豊臣秀吉の弟である、豊臣秀長に仕えます。
この秀長の頃、いくつかの戦功により、一万石の大名として、すこしづつ殿様の形を整えていきます。
後、一時、高野山に出家しますが、秀吉の誘いで、四国、伊予板島5万石の大名となります。
朝鮮出兵にも参戦し、武功をあげ、三万石が加増されます。
秀吉の死期が近づくと、今度は 徳川家康に急接近し、天下取りのために様々な活躍をします
この功績により、家康から20万石の加増を受けました。
後、伊賀伊勢に22万石の加増条件でより徳川家に近い領地が与えられます。
豊臣家と徳川家の争いである、大阪の夏、冬の陣に参戦。
長宗我部盛親と激戦を展開し、これらの武功で、32万石に加増されます。
家康から、大変な信頼を受け、死の際には、外様大名の中で唯一接見を許されたそうです。
高虎の身長は190センチメートル、体重は110キログラムという大男で、体中傷だらけだったそうです。
城作りの名人で家康からの依頼でたくさんの城を築きました。
歴史小説なんかでは、あまりいいイメージで書かれることが少ないですが、一番最初の身分は没落した地主で、秀吉のように、なにもないところから、大大名になった、計算性、眼力はほんとにすばらしいとおもいます^^。
体の大きなことでも有名ですが、画のように、鼻もこんなに大きかったんでしょうかね^^。
上野東照宮は、家康から、天海僧正、高虎への遺言により、藤堂家の敷地内に建てられたものです。
その藤堂高虎のお墓は上野動物園の敷地内にあります。
徳川家康とは
(徳川家康肖像画-GENNKIMAN)
もはや、誰もが知る、日本国の歴史上、最大最高の成功者です。
この最高の成功者は、その成功まで、すごく悲劇的な出来事の連続でした。
徳川家康は幼少のころ、家柄が小さかったため、抵抗のない証に、人質として、織田家で過ごし、後には今川家で、過ごします。
後、今川家と手を切り、織田と同盟を結びますが、三方が原での武田軍との戦いではボロ負けして死にかけ、脱糞までしてしまいます。
家康には築山殿(つきやまどの)という奥さんと信康という息子がいたのですが、この二人が武田家と内通をしているのでは?という疑惑がもちあがり、信長の怒りにより、家康は築山殿を殺害、信康を切腹させています。(信長と無関係という説もあります)
信長が死んでしまう、本能寺の変(1582)では運悪く堺の町をぶらぶらしている時で、明智光秀の軍がひしめき合う中を、命からがら、逃げ切ります。
そして、秀吉の時代になると、長年の故郷の東海から、関東へ、強制移住をさせられてしまいます。
秀吉の死により、長年抑えていた天下への野心を持ち上げ、1600年、日本を東西にわけた関が原の戦いで、石田三成に大勝を収めます。
さらには、豊臣家自体に矛先を向け、大阪城を戦場として、冬(1614)、夏(1615)と戦い、ついに豊臣家を滅ぼします。
一見ひどい話ですが、秀吉も信長の一族に天下の地位を譲らなかったわけですから、お互い様なのです^^。
このようにして、完全な天下人となり、アフターケアも完璧で250年間の徳川時代を築くわけです。
ものすごい、大人物であります^^。
家康からの遺言で、藤堂高虎、天海僧正らにより、上野東照宮が立てられました。
上野東照宮 地図
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関連サイト
蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん) | |
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東京都世田谷区、蘆花恒春園を紹介するサイトです。明治大正期の小説家、徳富蘆花が現代に残してくれた公園です。徳富蘆花の当時の屋敷が多くの自然と共に残されております。 |