西郷隆盛像:上野恩賜公園のシンボル
西郷隆盛像は上野公園にある、西郷隆盛さんを顕彰してたてられた像です。
概要
上野公園のシンボルといえば、西郷隆盛翁の銅像ですね^^。
上野公園の待ち合わせ場所といえばここでしょう。
西郷隆盛銅像の除幕式は1898年(明治31年)12月18日に行われ、全国から大勢の人が集まり、盛大な式典であったそうです。
ですが、西郷隆盛翁の夫人のイトさんはその像をみるや泣き出し、
「うちの人は、こんな野卑な顔ばしていなか。じつに礼儀正しい人じゃったに。おおぜいさまの前で、のらぎ着てわらじばきでいるなんて、失礼なことは絶対にしなか。」
と言い、二度と上京することはなかったそうです。
西郷隆盛翁銅像は明治24年、宮内次官古井友美らが呼びかけ、二万五千人の基金をもとに、隆盛翁は高村光雲、犬は後藤貞行が制作しました。(ちなみに犬の名前はツン)
銅像の製作者の高村光雲は西郷隆盛翁が写真嫌いであったため、どのような顔かわからず、翁の親戚、知人、世話人を訪ね歩き、4,5年の年月を経て、ようやく、顔の形をきめました。
(元横綱の武蔵丸さんに顔も体型も似ておりますね^^)
苦労しまくって、やっと創り上げた西郷隆盛翁の銅像ですが、翁の奥さんに泣いて違うと否定されたんじゃ、製作者の高村光雲も、さぞ、がっくりしたことでしょうね^^。
銅像は最初、皇居前の広場に立てる予定だったのを、明治政府に遠慮をして、上野公園に建造されました。
関東大震災や、太平洋戦争などの戦火からも無傷で、100年以上経った平成の現在に残る、歴史深い銅像です。
西郷隆盛像 地図
スマートフォンでご視聴のかたは、指2本をあてるとスライドできます。
西郷隆盛とは
(西郷隆盛翁肖像画-GENNKIMAN-)
西郷隆盛翁といえば、幕末、明治を扱った歴史小説、ドラマなどに、必ず登場する、明治維新実現の大巨柱のひとりです^^。
1853年、江戸湾の浦賀沖にペリー率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦、通称、「黒船」の来航により、日本国内は、有象無象の大混を招きます。
江戸幕府の権威が崩れ始め、鹿児島の薩摩藩、山口の長州藩が中心となり、江戸幕府への対抗勢力が形成されます。
その薩摩藩の中心的人物が西郷隆盛であり、同藩の大久保利通、長州藩の桂小五郎らと共に、江戸幕府体制を終焉させ、明治政府を樹立させます。
廃藩置県、武士の刀携帯の禁止など、新しい国家機構の全責任を自ら負い、礼儀正しく、比類のない人望の厚い人物でした。
西郷翁は鎖国状態であった、朝鮮開国のため、自らが朝鮮に赴こうとします(『征韓論』)。
ですが、大久保利通等、他の政府首脳らの反対にあい、西郷隆盛は鹿児島に帰ってしまいます。
鹿児島では、日本の未来のために、「私学校」を設立し、人材育成に努めますが、明治10年(1877)、その私学校生徒が暴発し、西南戦争を勃発させます。
西郷翁自身は戦争に反対でした。
が、結局、薩摩側の大将として、西南戦争に従軍しますが、破れて、城山で自刃してしまいます。
賊軍の大将として処置されましたが、その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈されました。
翁が鹿児島に帰ったとき、陸軍の少将だった、桐野利秋など、たくさんの薩摩籍の人たちも、出世した地位を捨てて、一緒に帰ってしまったといいますから、ほんとに人望が厚かったんでしょうね。
西郷さんは島流しにされたり、自殺未遂なんかもしてますが、そのような多くの苦しみの経験を経ますと、なにか、特殊な人望がでてくるのでしょうか^^?
テレビで子孫の方が出てましたが、大きな目と、体が大きく、なんとなくイメージする、西郷さんに、似てましたね^^
西郷さんを主役にした小説ですと、司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」(とぶがごとく)がおすすめです。
関連サイト
蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん) | |
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東京都世田谷区、蘆花恒春園を紹介するサイトです。明治大正期の小説家、徳富蘆花が現代に残してくれた公園です。徳富蘆花の当時の屋敷が多くの自然と共に残されております。 |