不忍弁天天龍門
(不忍弁天天龍門画-GENNKIMAN)
上野公園には、かつて「不忍弁天天龍門」という門が存在しました。
上野不忍池の中央の、弁天様を祀る、不忍池辯天堂(しのばずのいけべんてんどう)の前にありました。
この建築に従事したのは、伊東忠太という建築家で、氏は築地本願寺、靖国神社の神門など、巨大で歴史のある建造物を多数手掛けた人物です。
イラストのように、竜宮城の入り口の門のような、面白いデザインで、アーチ状の石台の上に、日本、中国風の屋根が乗っかっております。
残念ながら、「不忍弁天天龍門」は大東亜戦争により、消失しました。
(ちなみに、現在の不忍池辯天堂も戦争で消失したのが、再建されたもので、戦前のお堂は六角形ではなかったそうです。)
建築者の伊東忠太は様々な大建築群の中で、一番のお気に入りが、この小さな(他の比べて)「不忍弁天天龍門」であったそうです。
なんだかこの、天龍門の前で、弁財天さまが、琵琶を弾きながら、佇んでいそうな、そんなイメージが浮かんできます。
個人的に、なんとか、再建して欲しい建築物です^^。
伊東忠太とは
(伊東忠太肖像画-GENNKIMAN-)
1867年11月21日、山形県に生まれます。
帝国大学卒業後、日本建築に関する分野で、大学院にすすみ、さらに、帝国大学の教授になります。
この頃、三年間、インド、西アジア方面で、建築の研究を重ね、中国においては、雲岡石窟(うんこうせっくつ、世界遺産)の大発見もしています。
明治から、昭和にかけ、建築家、建築研究家として、活躍しました。
その依頼された作品には、靖国神社の神門(1934)、築地本願寺(1934)、平安神宮(1895)、震災記念堂(現、東京都慰堂、1930)、湯島聖堂(1935)、など、大規模、かつ、歴史のある数々の建築物があげられます。
どの建物も、インド、中国、日本的な要素がうまく融合された、見事なものばかりで、街中を歩いていて、たまたま見かけたりすると、しばらく、眺めてしまいます。
歴史のあるもの、大規模な作品を多く設計した伊東忠太でしたが、本人が一番、気に入っている作品は、上野恩賜公園の不忍池弁天堂の前に建設した、「不忍弁天天龍門」であったそうです。
他の作品に比べますと、極めて小さいものでしたが、全て、自由に創らせてもらえた、という点で、いちばんのお気に入りだったそうです。
残念ながら、不忍弁天天龍門は戦争により、消失しました。
1954年(昭和29年)、87歳で、逝去。
関連サイト
蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん) | |
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東京都世田谷区、蘆花恒春園を紹介するサイトです。明治大正期の小説家、徳富蘆花が現代に残してくれた公園です。徳富蘆花の当時の屋敷が多くの自然と共に残されております。 |