正岡子規記念球場

正岡子規記念球場

正岡子規記念球場

-正岡子規記念球場-

 

正岡子規記念球場は上野公園にある、東京都が管理する草野球用の野球場です。

 

 

概要

 

明治9年(1876)の開園式依頼、130周年を迎えた、上野恩賜公園の記念事業の一つとして、 平成18年、七月二十一日に、「上野恩賜公園野球場」という名称から、 「正岡子規記念球場」という愛称で呼ばれることになりました。

 

正式名は上野恩賜公園正岡子規記念球場

 

日本にベースボールが知られるようになった初期のころから、正岡子規はベースボールの 愛好家であり、上野恩賜公園の場所で、野球を楽しんでいたことと、アメリカのベースボール用語の日本語を作成した功績 などにより、この名称が用いられることとなりました。

平成18年7月11日の式典では、プロ野球選手とのキャッチボール大会なんかも行われたそうです^^。

 

 

周囲の景観

正岡子規記念球場正岡子規記念球場

正岡子規記念球場

正岡子規記念球場

 

下から2番目の写真が、句碑で

 

「「春風やまりを投げたき草の原」」

 

と、彫られています。

 

 

その下には球場名の由来が記されています。

 

「正岡子規(1867〜1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県、松山市 に生まれた。

 

名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて 間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内 で野球を楽しんでいた。

 

子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3つき21日午後に 上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手で あったことがわかる。

 

子規の雅号のひとつに、幼名の升(のぼる)にちなみ「野球( の・ぼーる」という号がある。

 

子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いて その普及に貢献した。

 

ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」 などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。

 

子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され 「子規庵」(台東区根岸2−5−11)の名で公開されている。

 

上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、 野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。

 

平成18年7月-台東区・台東区教育委員会」

 

 

正岡子規とは

正岡子規記念球場

(正岡子規肖像画-GENNKIMAN-)

 

明治時代に活躍した、詩人、歌人、です。本名常規(つねのり)。

 

強力な自分の考えにおいて、過去における、短歌、俳句の価値を改め、松尾芭蕉の作においても、 陳腐なものは陳腐であると判断し、近現代文学に大きな影響を及ぼします。

 

愛媛県から東京に上京し、東京大学予備門へ入学。哲学、政治に関心を持ち、俳句を作るようになります。

 

結核を患い、血を吐くようになってから、「子規」の雅号を用いるようになります。

 

「子規」とは鳥のホトトギスの別名であり、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスと結核で血を吐く自分自身を 重ね合わせてつけられました。

 

野球が好きで、上野恩賜公園の空地でよくプレイし、ベースボール用語を日本語訳し、それが現在も使われたりした功績で、2002年野球殿堂入りを果たしました。(東京ドーム内の野球体育博物館:新世紀特別表彰)

 

また、上野公園にあった、上野恩賜公園野球場が正岡子規記念球場という名称に記念変更されました。

 

結核でありながらも戦争の記者として従軍したりしますが、病を悪化させ、1902年9月、逝去します。

 

この横顔は、なにかをやり遂げるような、凄みのある顔ですね^^。

 

司馬遼太郎の日露戦争をテーマにした「坂の上の雲」にも、海軍参謀の秋山真之の親友として正岡子規はでてきます。

 

 

正岡子規記念球場 地図


スマートフォンでご視聴のかたは、指2本をあてるとスライドできます。

 

 


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