彰義隊墓所:上野戦争戦死者の墓碑

彰義隊墓所

彰義隊墓所

彰義隊墓所とは、上野公園内にある、彰義隊隊士の火葬場の跡地です。

 

 

 

 

概要

墓碑の高さは、7.6メートルで山岡鉄舟により、「戦士之墓」の文字が刻まれています。

 

2003年まで関係者のご遺族による彰義隊資料館がありましたが、現在は閉鎖。

 

 

幕末、幕威の衰えによる、戦乱の中、薩摩、長州を中心にした新政府軍代表の西郷隆盛と、幕軍代表の勝海舟の間で会談が執り行われ、江戸幕府の御霊ともいえる江戸城は無血で新政府軍に渡されました

 

 

このような状況に、士族の万人が納得できるわけがなく、反発する勢力があわられます。

 

 

彰義隊とは、江戸幕府を支持し、薩摩、長州を中心にした新政府に不満を持つ士族らで結成された軍隊です。(ただし、この頃の身分階級はあやふやで、士族出身以外の者も参加しています)

 

 

そして、彰義隊は、1868年(慶応4年)5月15日、大村益次郎が指揮する薩摩、長州を中心とした新政府軍と、上野寛永寺寺領域を舞台に、戦争を勃発させます。

 

彰義隊は半日で破れ、彰義隊隊士の死者は266名にのぼりました。

 

円通寺の住職と、寛永寺の御用商人の三河屋幸三郎らが彼らを集めて火葬し、円通寺に埋葬されました。

 

その火葬した場所が彰義隊墓所です。

 

 

上野のすぐ近くの南千住に 円通寺はあります。このお寺には彰義隊士のお墓と、当時激戦区だった、寛永寺の黒門が保存されています。

 

彰義隊の形成過程については、司馬遼太郎先生の「花神」の下巻をおすすめします

 

 

大村益次郎とは

(大村益次郎肖像画-GENNKIMAN-)

 

幕末時代、江戸幕府を終焉させた、新政府要人のひとりです。

 

長州藩(現在の山口県)の鋳銭司(すぜんじ)村の村医でしたが、蘭学の才能から、大坂の適塾に入塾します。

 

適塾は、あの福沢諭吉も学んだ、蘭学(オランダ語)の最高学校ですが、師匠の緒方洪庵がいうには、大村益次郎は、福沢諭吉より、よく勉強した、のだそうです。

 

益次郎は、適塾の塾頭を勤めるほどの才人で、伊予宇和島藩の誘いで、オランダ語の翻訳、日本国産の黒船の設計などに携わります。

 

ここでの生活は、益次郎にとって、楽しかった思い出のようでした。

 

 

江戸に移ると、鳩居堂という塾をひらき、みずから手掛けたこの塾を自分自身たいへん気に入っていたのですが、長州藩と幕府との関係が不安定になることで、閉塾。

 

本人いわく「実にいやであった・・・」とか。

 

 

大村益次郎は桂小五郎との出会いで、長州藩の軍師、教師として、打倒幕府のために、活躍します。

 

長州藩と江戸幕府との戦いの際には、石州口(島根県西部)方面の指揮を執り、圧勝。

 

(長州藩全体としても勝利状態のまま、停戦となる)

 

倒幕、王政復古を目的とする、戊辰戦争(1867)が勃発すると、江戸城が明け渡されますが、それに不満をもつ、士族らが、天野八郎らを中心に彰義隊を組織。

 

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と彰義隊が1868年上野寛永寺領域において、戦争を起こします。

 

 

この新政府軍の作戦指揮者が大村益次郎で、戦争は新政府軍側が一日で勝利します。

 

その後は日本の軍力を高めるために奔走しますが、京都での軍事施設の視察中、旅館において、暗殺団に襲われ、死去します。(この時、益次郎の手術を上野恩賜公園の建設を提唱した、オランダのボードワン博士が執刀しています)

 

享年46歳。

 

大村益次郎は大坂近辺に軍力を集めたのですが、これは、いずれ、薩摩が反乱することを見越していたともいわれております。

 

プロの将棋指しが凡人にはわからない何手も先がわかるように、大村にもそれがわかったのでしょうか。

 

大村益次郎を主人公にした小説では、司馬遼太郎先生の「花神(上中下)」があります。

 

(司馬遼太郎先生の作品は好きでいろいろ読んでおりますが、個人的に花神が一番好きです^^)

 

よくみかける大村益次郎の肖像画はイタリアの画家キヨッソーネによって描かれたもので、写真というのはないのだそうです。

 

でも、ほんとにこんなに頭がおおきかったのでしょうか・・・・・?

 

同じ長州藩の高杉晋作が大村益次郎につけたあだ名は「火吹きだるま」なのだとか^^

 

 

 

彰義隊墓所 地図


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