野口英世像:上野公園ある銅像
野口英世像は上野公園にある、野口英世博士を顕彰する銅像です。
概要
高さ4.5メートル(石台を含む)。製作者は多摩美術大学教授、吉田三郎。
台石にはラテン語で「PRO BORN HUMANI GENERIS」(人類の幸福のために)と刻まれています。
銅像造立の活動者は福島県三春町出身の玉応不三雄(たまおふみお)氏。
昭和26年3月造立されました。
野口英世とは
(野口英世肖像画-GENNKIMAN-)
細菌の学者です。
福島県の貧しい農村に生まれます。
1歳半の子供の頃、囲炉裏で左手に大やけどをし、よく機能しなくなってしまいます。
ですが、15歳の時、左手の手術を受け、成功し、機能が回復します。
この出来事がきっかけで、英世は医療従事者を志します。
1897年(明30)医師資格取得。
1900年(明治33)アメリカに渡り、アメリカの大学や、ロックフェラー財団のもとで、毒蛇、黄熱病、オロヤ熱病、トラコーマ病、狂犬病の研究などに勤めます。
1927年(昭和2年)黄熱病の研究のためにアフリカに渡ります。
アフリカで黄熱病の研究中感染し、ガーナ共和国の首都アクラで、死去なされました(昭和3年5月21日。51歳。1876〜1928)。
最後の言葉は「I don`t know」(私はわからない)だったそうです。
黄熱病の病原体は細菌ではなく、ウイルスだったために、当時の顕微鏡では発見ができなかったのだそうです。
ちなみに、英世の、元々の名前は「清作」です。
1898年(明治31)名前を「清作」から「英世」に改名します。
なんでかというと、坪内逍遥の「当世書生気質」という小説に、「野々口精作」という遊び人で、ひどくだらしない人間が出てくるのですが、当時の野口英世も、かなりだらしなく、遊び人だったそうで、名前が似ていることがいやで、英世に改名したそうです。
日本に居るときは、カンパしてくれたお金を、ぜんぶ使っちゃうような、ものすごい遊び人だったらしいですが、アメリカでは、他の人が唖然とするくらい、研究に没頭していたそうです。
2004年11月発行の1000円札に肖像を採用。
千円札の英世は、エクアドル滞在j時代に撮影した、本人もお気に入りの写真がモデルなのだそうです。(40歳くらいのもの)
野口英世像 地図
スマートフォンでご視聴のかたは、指2本をあてるとスライドできます。
ズームアップすると、右の方に位置が表記されます。
関連サイト
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東京都世田谷区、蘆花恒春園を紹介するサイトです。明治大正期の小説家、徳富蘆花が現代に残してくれた公園です。徳富蘆花の当時の屋敷が多くの自然と共に残されております。 |